幕末と脱藩

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脱藩後の坂本龍馬

 

三田尻に着くと、龍馬と惣之丞は、まず先に土佐藩を脱藩した土佐勤王党の志士・吉村寅太郎を頼って長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねますが、吉村はすでに京へ出立した後でした。

そして数日後に土佐藩参政・吉田東洋が暗殺されます(4月8日)。
その暗殺者の中に、脱藩の道案内をしてくれた那須俊平の息子・那須信吾がいました。
(那須信吾については、次回お話しします。)

 

京に出た吉村寅太郎は文久2(1862)年4月23日に起きた寺田屋事件の翌日に捕らえられ、身柄を土佐に送還されてしまいます。

 

様々な出来事が起きて予定の変更を余儀なくされた坂本龍馬は、沢村惣之丞とも別行動になります。

 

その後の龍馬の足取りは定かではありません。
大雑把に話になりますが、どうも薩摩藩に向かったようです。
龍馬が薩摩に向かった理由は、薩摩藩が近代的な軍備をいち早く取り入れていたので、それを自分の眼で見たかったからだと言われています。

しかし、薩摩藩は常に幕府からの独立を志していたので、他藩と比べて圧倒的に入国がしづらく、龍馬は薩摩入りを諦めたようです。

 

その頃、土佐では吉田東洋が亡くなった為に武市半平太が藩論の大転換に成功し、土佐藩主・山内豊範の上洛を画策します。
7月頃は龍馬は大阪にいたようですが、瀬戸内海防備のために大阪に出動していた土佐藩士・望月清平から、龍馬が吉田東洋暗殺の容疑者になっていると聞き、大阪を後にします。

 

そして龍馬は再び江戸の桶町千葉道場へと向かいます。

 

前にお話したお佐那との婚約もこの時に成されますが、この期間、 土佐藩の同志や久坂玄瑞や高杉晋作などと親交を深め、間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽と会い、更に龍馬にとって運命の人・勝海舟と、とうとう出会ってしまうのですが、それはまた別の機会にお話しします。

 

こうやってまとめていると、つくづく感じてしまうのですが、たった一つの行動が、本当に人の生き方を変えてしまうものなんですよね。
この脱藩によって、その後の坂本龍馬の人生は間違いなく一変しました。
そして龍馬の脱藩以降の行動によって、維新はグーンと現実味を帯びてくるのです。

 

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嶺里 ボー『 龍馬はん』

 

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