亀山社中〜日本初のカンパニー

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亀山社中〜龍馬の夢のはじまり

 

慶応元(1865)年3月18日、神戸海軍操練所が廃止になり、坂本龍馬と塾生は勝海舟の斡旋で薩摩藩の庇護を受け、同年5月に同藩の出資によって商社『亀山社中』を設立しました。

 

『亀山社中』は長崎の豪商・小曽根乾堂の亀山焼工場跡地を根拠地に、下関の豪商・伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置します。

 

この3つの拠点の中で、長崎は龍馬の師・勝海舟にとって思い出の場所でした。

 

勝海舟は龍馬が長崎に渡る10年前の安政2(1855)年7月、長崎海軍伝習所に入門していました。
それから5年間、海舟は長崎で過ごしますが、その間に小曽根乾堂と懇意になったようです。

 

元治1(1864)年2月、勝海舟は坂本龍馬と共に再び長崎を訪れます。
この時に小曽根乾堂に龍馬を紹介したといわれています。

 

その流れもあって翌年に長崎に拠点を置いたことが、その後の龍馬の運命を大きく変えていきます。

 

長崎にはトーマス・ブレーク・グラバーというスコットランドから来た商人がいました。
グラバーは当初は、主に生糸や茶の輸出を扱っていましたが、『八月十八日の政変』以降の政治的混乱に着目して、武器、弾薬の輸出を始めます。
その時期に坂本龍馬はグラバーと出会いました。

 

亀山社中の拠点を長崎に置くことや、その後、グラバーに頼って武器の流通に関わることが、事前から考えられていたことなのか、偶然の産物なのかは分かりません。

 

ただ、もし龍馬が長崎にいなければ、もし龍馬がグラバーと出会っていなければ、また、その時期がほんの少し違っていれば、おそらく薩長同盟は成されなかったでしょうし、その後の国政も違ったカタチになっていたでしょう。
そう思うと、歴史は本当に些細な流れでできているものなんだなと改めて感じます。

 

 

この亀山社中は”単なる武器商社だ”とか、”事業としては失敗だった”と簡単に語る人がいますが、実際にはどんな会社だったのか、そしてどのような事業的成果をあげたのか、一言で表すのは難しいです。

 

まず当初、薩摩藩が亀山社中に求めたのは神戸海軍操練所で学んだ彼らの航海術の専門知識を用いた後進の教育や、交易の仲介、物資の運搬などでした。
それは、亀山社中の拠点になった小曽根邸が、廃止された長崎海軍伝習所の近くだったところからも、推察できます。

 

それ自体は、龍馬たちが神戸海軍操練所で学んでいたことから必然的に導き出される(”弁護士資格を持ってたら、弁護士やるだろう。”みたいな)流れですが、龍馬はそこからもう少し幅の広い事業の展開を考えはじめます。
それはきっと、亀山社中に集まった各藩の有志たちの活かしどころが、まだ他にあると考えたからだと思います。

 

後に龍馬は、この亀山社中を使って薩長同盟の締結に大きく貢献することになるのですが、これも坂本龍馬が持っている、それぞれの才能を瞬間的に、即興的にオーガナイズする能力の一つの例でしかありません。

 

板垣退助は坂本龍馬について

 

「豪放磊落、到底吏人(役人)たるべからず、龍馬もし不惑の寿(40歳を越えていたら)を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」

 

と称しましたが、長崎の豪商・小曽根乾堂や大浦 慶、下関の豪商・伊藤助太夫など、時流を読み、冷静な判断力を持つ商人たちが坂本龍馬に入れ込んだのは、西郷隆盛がいう、単なる”人たらし”では済まないと思うのです。

 

その坂本龍馬が『亀山社中』で何を成したのか、もう少しだけ振り返ってみましょう。

 

●『龍馬はん』

「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」

維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?

倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……

 薩長同盟と亀山社中→

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