汗血千里駒〜坂崎紫瀾と西山志澄

Pocket

坂崎紫瀾と西山志澄

 

1883年(明治16年)『汗血千里駒』は、土陽新聞の未来を、いろんな意味で託すカタチで連載されます。

 

同年に土陽新聞の社長になったのが、坂本龍馬の幼馴染み、平井加尾の夫・西山志澄でした。

 

西山志澄は土佐勤王党の出身で、戊辰戦争の時には板垣退助が率いる土佐迅衝隊に加わり従軍し、明治7(1874)年には大蔵省に出任しますが、辞職して高知に帰郷し、板垣退助を助けて立志社、愛国社、土佐民会の設立に尽力します。
そして明治11(1878)年、立志社の副社長に就任し、明治16(1883)年、土陽新聞の社長に就任しました。

 

この西山志澄が坂本龍馬の伝記小説を連載するというところに運命を感じざるを得ません。

 

いくら坂本龍馬が偉人だったとしても、妻・加尾が愛していた男性を世に送り出そうとした西山志澄の人としての度量の広さはすごいと思います。
その上、坂本龍馬の生涯を伝えることが、自由民権運動を推し進める助力になるという達観や、この面白い娯楽小説が土陽新聞の売り上げを伸ばすだろうと考える経営者としての戦略も、ずば抜けたものを感じます。

 

そして、その『汗血千里駒』を書いた作家が坂崎紫瀾です。

 

坂崎紫瀾は、自由民権運動家の新聞記者でした。
(そして当時としてはとても珍しい男女同権論者でもありました。
『汗血千里駒』の中で、お龍やお佐那、乙女姉など、女性たちが大活躍しているのは、その影響があるのだろうと言う人もいます。)

 

坂崎紫瀾は明治13(1880)年に創刊された『高知新聞』の主筆となります。
そしてすぐに、維新期に活躍した志士、間崎滄浪、平井収二郎、坂本龍馬らが登場する歴史小説「南の海血汐の曙」の連載を始めます。

自由民権運動家としての活動も盛んに行っていて、各地を演説して回りますが、それを禁止されると劇団を作って興行します。すると、その興行が不敬罪に問われて、有罪になり、仮出所している時に書いたのが、この『汗血千里駒』だったのです。

 

このように当時を振り返ると、「『汗血千里駒』はただのプロパガンダ小説で、坂本龍馬はそれに利用されたピエロみたいなもんだ。」と皮肉りたくなる人もいるでしょう。
確かに当時の政府による厳しい弾圧の中で、苦肉の策で生み出された政治小説だったかもしれません。

 

だけど本当に重要なのは、この小説自体が、そしてそこに存在する坂本龍馬そのものが”面白かった”ということなんだと思います。
連載当時、自由民権運動に反対していた政府の人たちも『汗血千里駒』を楽しみに読んでいたというのがその証拠にもなるでしょう。

 

「明治十四年の政変」の際、伊藤博文は10年後の国会開設を約束した「国会開設の勅諭」を出しました。
しかし、実は、政府は10年もたてば、こんな運動はおさまるだろうと思っていたそうです。
それでもなかなか収まらないので、より弾圧を強めたりもしました。

 

だけど、結局、その力は及ばず、意に反する形でことは進み、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が公布、国政選挙が行われ、翌年、選挙によって選ばれた議員が参加する定例議会が開かれることになります。

 

私たちが今、普通に憲法や、発言、行動の自由のあり方を議論できるのは、それらを私たちの行動によって変えることができる土壌があってこそです。
その道を開いた先人たちの努力はどれほどだっただろうと思うと、簡単にこの権利を手放してはいけないと思えてきます。

 

戦後、新たな龍馬ブームを作った司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(1962~66年)は、司馬遼太郎自身が『汗血千里駒』から影響を受けたことを認めています。
時代を超えて影響を与え続ける坂本龍馬という人物は、どの時代においても”未来をより良くしたい”という欲求の中に生きているように感じます。

 

そしてこれからも、その先へ進もうとする”新しい龍馬像”が描かれ続けていくことでしょう。

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』

 

「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」

維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?

倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……。→ 続きを読む

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です