陸奥宗光〜カミソリ外交

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陸奥宗光と坂本龍馬

 

「政治はアートなり。サイエンスにあらず。
巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。
決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」

 

陸奥宗光は自著『蹇々録』の中でこう語りました。

 

坂本龍馬は宗光のことを

「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」

と讃えました。

 

龍馬にそこまで言わせた陸奥宗光とは、いったいどういう人物だったのでしょうか?

 

 

陸奥宗光は、天保15(1844)年7月7日、紀伊国和歌山の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれます。

 

父は紀州藩の財政再建を成した勘定奉行の重臣でしたが、宗光が8歳(嘉永5(1852)年)の時に家老・水野忠央から危険思想を藩内に広げたということで父・宗広は失脚し、紀伊田辺に10年近く幽閉され、残された一家は一気に困苦と窮乏の生活がおとずれます。

 

国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持っていた宗光は、安政5(1858)年、江戸に出て儒学者・安井息軒に師事しますが、吉原通いが見つかり破門されてしまいます。

 

いきなり吉原通いですが、当時14歳の宗光には、華やかな江戸の街並みは刺激が強過ぎたのかもしれませんね(^^)

 

 

その後は律令学者であり復古的法学派の総帥・水本成美に学び、この頃、坂本龍馬や、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などと交友を持つようになります。

その間に父・伊達宗広は万延2(1861)年、元土佐藩主・山内容堂が紀州藩を説得して釈放されますが、翌年、宗広は兄・五郎と共に紀州を脱藩し京都で中川宮や姉小路公知らを担ぐ尊皇攘夷活動に参加しました。
その翌年、宗光も紀州藩を脱藩し、父たちの活動に参加します。

 

そして文久3(1863)年、陸奥宗光は坂本龍馬と共に勝海舟の神戸海軍操練所に入り、これ以降、亀山社中を経て海援隊と、終始、龍馬と行動を共にしました。
この頃に最初の妻・陸奥蓮子と結婚しています。

 

また別の機会に詳しくふれるので、ここではさわりだけ説明しますが、坂本龍馬が設立した亀山社中・海援隊というのは現在の株式会社のようなものでした。
亀山社中は長崎の豪商・小曽根 乾堂や薩摩藩などの出資を得て長崎の亀山にある小曽根邸の一部を借りて始まり、後に土佐藩からも出資を受けて海援隊になります。

 

ただそれだけ聞くと大したことがないように聞こえるかもしれませんが、当時は武士が何かをやろうとすれば、必ず藩のお伺いを立てなければなりません。
その上に、許可を得て始めたとしても出資を所属する藩に頼り、利益は藩の主導の中で還元させられます。

その上に、亀山社中・海援隊に集まった人たちはほとんど脱藩浪士という帰属していた藩からすれば犯罪者の集まりです。

 

それを考えると、各藩や様々な豪商など多方面から資金援助を募り、貿易、運輸、教育、出版など様々な仕事をしていたこの会社が、いかに画期的なものだったか想像して頂けると思います。

 

その中で陸奥宗光は、交渉役の近藤長次郎、事務方の長岡謙吉と共に、商務担当として実力を発揮し始めました。

 

しかし、それも一瞬の出来事で暗転してしまいます。

 

慶応3(1867)年11月15日、坂本龍馬は京都近江屋で殺害されてしまうのです。

 

●『龍馬はん』

「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」

維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?

倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……

陸奥宗光〜天満屋事件→

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