民富論
”三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候”
これは坂本龍馬が暗殺5日前に福井藩重臣・中根雪江へ書いた書状の中で、当時、蟄居・謹慎中だった由利公正(三岡八郎)の1日も早い処分取り下げと出仕を訴えた一文です。
”国家の家計を扱えるのは三岡をおいて他にない”
龍馬にそこまで思わせた由利公正(三岡八郎)とは、いったいどういう人物だったのでしょうか?
由利公正は文政12(1829)年11月11日、福井藩士・三岡義知の子として生まれます。
母親は家計の切り盛りがとても上手で、公正は幼少の頃から母を助けて家屋の修繕や菜園での農作業、父の乗馬の飼育などを手伝っていたそうです。
剣道は真影流、槍は無辺流、西洋流の新式砲術それぞれ免許皆伝の腕前の上に乗馬が得意で、19歳の時に福井藩名物「馬威し」で優勝し、それが福井藩主・松平春嶽の目に留まります。
福井藩は当時、度重なる天災にみまわれたことなどで財政困難に陥り、それに伴って一揆なども起きて、さらに藩政が乱れていました。
そんな中、天保9(1838)年に春嶽が福井藩主に就任すると、公正は藩の財政再建を進めて行くための新たな人材として抜擢されます。
そして嘉永4(1851)年には熊本藩から政治顧問として招かれた横井小楠から、「経済」の語源である“経世済民”の考え方などを学び、「民富めば国の富む理」という「民富論」を実践していきます。
それは、財政が苦しいから倹約を勧めるのではなく、お金を循環させることで経済を活性化しながら財政再建するという、当時としては画期的な考え方でした。
藩の乏しい資金を藩札(現在の国債のようなもの)で補い、それを生糸生産者に貸し付け資金として手渡して、養蚕事業を発展させ、貿易が盛んな長崎や横浜に福井産の生糸を独自の販売ルートで売って外貨を稼ぐという、生産・流通・販売の一元化を行う専売制などを用る殖産興業政策で、由利公正は福井藩の財政再建に成功します。
しかし、その成功もつかの間、味をしめた藩の上層部が、公正の進言も聞かずに藩札を無闇に増刷したため、藩札は大暴落し、また財政を逼迫させてしまいます。
…どの時代も考えの甘い人たちによって、同じような過ちが繰り返されているんですね。。
その後、松平春嶽が文久2(1862)年に政治総裁職に就任すると、由利公正は春嶽の側用人(現在の秘書官に近い存在)になります。
翌年、神戸海軍操練所の資金提供の依頼をしに、坂本龍馬が公正のもとを訪ねます。
公正は、身分も藩も、また武士でなくても志があれば受け入れるという海軍操練所の考え方に共感し、福井藩を説得、藩に5000万両もの大金を出資させました。
そしてその翌年、幕府は朝敵となった長州の征伐に向けて各藩に参加を要請します。
しかし、公正はこの戦争に反対でした。
むしろ長州、薩摩の雄藩と共に国政を行った方がいいとまで主張しますが、藩内で猛烈な反発を受け、蟄居・謹慎処分になってしまいます。
由利公正はこの謹慎中に、炎の熱を逃さず、 土の中に埋めることで保温力を増す新型「へっつい」 を考案します。
それは従来の「へっつい」よりはるかに燃料が節約 でき、しかも火力が強いものでした。
公正が考案された「へっつい」は、 昭和十年まで「三岡へっつい」とよばれて福井県下で 用いられていたそうです。
公正が謹慎処分を受けてから4年後の慶応3(1867)年10月4日、大政奉還がなされます。
この大政奉還に尽力した坂本龍馬は、一息つく間もなく新政府の方向性を定めるために行動を続けます。
その中で龍馬が最も憂慮していたのは武士の経済感覚の疎さでした。
慶応3(1867)年10月、龍馬は福井藩の松平春嶽を訪ねた後の同月30日、謹慎中の由利公正を福井の莨屋(たばこや)旅館に招き、延々16時間にも渡って新政府について議論しました。
そして冒頭の手紙へと繋がっていくのです。
坂本龍馬は福井から京に戻り、『新政府綱領八策』を書き上げますが、慶応3(1867)年11月15日、近江屋にて暗殺されてしまいます。
その時、公正は福井城下の足羽川沿いの土手を歩いていたそうです。
そこに一陣の突風が公正を襲い、懐中に入れていた龍馬の手紙を落としてしまったという巷談が残っています。
“「商いゆうがは、どっちの得でもやったらいかん。
行ったら帰ってくる。
その順繰りが、ちゃぁんと回る仕組みを考えゆうのが大事じゃち、前に、三八に教えてもろうたぜよ。」
ちょこちょこ左右に揺れながら、小走りに歩く三岡はんの後ろ姿を見つめて、しみじみと龍馬はんは語りました。”
抜粋: 嶺里ボー “龍馬はん”