高杉晋作と太平天国の乱
『 翼あらば 千里の外も飛めぐり よろつの国を見んとしそ おもふ 』
これは、高杉晋作が”洋学修行はいつ行けるのか”を尋ねた手紙の末尾に、書き加えた和歌です。
高杉晋作といえば、多くの人が尊王攘夷の思想家だったといいます。
その象徴として語られるのが、この書簡を出した3年後、上海に派遣された時に『航海日録』に記した以下の文です。
「上海は外国船が停泊するもの常に三四百隻、その他軍艦十余隻という。支那人、外国人に使役されている。憐れ。わが国もついにこうならねばなるないのだろうか、そうならぬことを祈るばかり。」
これは、船が上海に入港する時に見た風景を語っているもので、よく「高杉晋作は西欧の植民地になってしまった中国の悲惨な状況を見て、攘夷思想の意を強くした」という内容で使われます。
そして、上陸してから後、欧米人に使役のように使われている清国人を嘆くような文もあります。
だけど二ヶ月の滞在の間に、晋作は、コトがそれほど単純ではないことを感じ始めます。
そのきっかけになったのが、”太平天国の乱”と称される清人の長髪族(太平天国軍)の進撃でした。
そして、その出来事がいくつかの形に分かれて、高杉晋作の頭の中でゆっくりと醸成されていったように感じます。
帰国後、文久2(1863)年12月12日、久坂玄瑞、伊藤博文らと共に英国公使館焼き討ち事件を起こし、(この事件も高杉晋作が攘夷思想であることを思わせるのに十分な出来事です。)長州藩は晋作の過激な行動を止める為に江戸から召喚されます。
そして長州に帰った晋作は、廻船問屋の白石正一郎邸を借りて、上海で体験した”太平天国の乱”における民衆のエネルギーを期待するかのような、身分に因らない志願兵による奇兵隊を作りました。
翌年、攘夷思想に沸く長州軍は、米仏との下関戦争に突入。
晋作率いる騎兵隊も参戦します。
しかし長州軍は術もなく敗れ、その翌年にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合軍に砲台を占拠されると、いよいよ晋作は和議交渉を任されることになります。
晋作が攘夷思想であるという見方は、この頃から揺らぎ始めます。
最後まで尊王攘夷の原理原則に従って行動した久坂玄瑞とは違い、高杉晋作は、その時の変化に従い、合理的にものを考えるようになっていきます。
それは、上海に行って”外の世界”を知ってしまった晋作と、日本に留まって”頭の中の世界”に固執していた玄瑞の違いだったのかもしれません。
高杉晋作が臨む和議交渉に対して、攘夷派の人達は、欧米の様々な要求を拒否するように指示を出しますが、高杉晋作はそれに同意せず、要求のほぼ全てを受け入れました。
ただ、賠償金に関しては「そうするように指導した幕府の責任」と、全額幕府に請求を回させ、長州が敵対する、本来、攘夷に熱心でなかった幕府が、これを支払わなければならなくなったことによって、一層財政事情が悪くなるという、見事な交渉を果たしたのです。
ここに来て、高杉晋作の目標は、焦点が定まりにくい”攘夷”から、はっきり”倒幕”へと切り替わったようです。
太平天国が目標を欧米の撤退ではなく、その先にある清国自身を変えようとしていたように。
だけど、その思いは一部の同志には届かず、この交渉によって高杉晋作と攘夷派との乖離は決定的になります。
和議交渉の時に認めた、下関の開港の為に、攘夷派だけに留まらず俗論派からも命を狙われる羽目になってしまうのです。
「開港すれば侵略される」と恐れている攘夷派が、下関を開港することに反対するのは当然といえば当然です。
変化が激しい時は、目を凝らして物を見ていないと、存在さえも確認できないものかもしれません。
それに、その知識がなければ、目に映っていたとしても、それを捉えることはできないでしょう。
高杉晋作が新しい時代に即す考え方を持つに至った上海への旅。
現在、少し安直なカタチで伝えられているこの旅が、晋作に大きな変化を与えた旅だったのかもしれないと考えると、また別の感慨が生まれます。
冒頭の手紙にもあるように、海外思考が強い高杉晋作は、後にイギリス商人グラバーに頼んで海外渡航を試みますが、結局、その思いを果たすことなく、肺結核によって慶応3(1867)年4月14日に死去。享年29歳でした。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
よく考えてみると、そんな句を読む高杉晋作が、歴史や伝統に縛られる尊皇攘夷派などに収まる訳がないですよね。
高杉晋作は、どうこの世を面白くしようとしてたのか…
それを想像する時、かつては攘夷派だった坂本龍馬と、ひょっとするとそれほど違ってはいなかったんじゃないかと思えてきます。
その高杉晋作は、嶺里ボーが書いた『龍馬はん』の終盤で、坂本龍馬が昔を回想するカタチで描かれていますが、現在、語られている「ただの攘夷派」ではない高杉晋作の姿を思い浮かべながら読んで頂けると幸いです。
●『龍馬はん』 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。 その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。 |
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下関戦争と奇兵隊
高杉晋作は、下関戦争で長州藩に生じた連合軍への賠償金を、幕府に全額支払わせたという話をしました。
だけど、当時、幕府と長州藩の仲は最悪だったのに、高杉晋作はどうやって幕府にその尻拭いをさせたのでしょうか?
その過程を追うと、現在の日本にも通じる何かを感じて頂けるかもしれません。
そもそも下関戦争は、孝明天皇の攘夷の勅命を受けて、将軍・徳川家茂が文久3(1863)年5月10日の攘夷実行を約束したことで起きた戦でした。(その後、薩摩藩もイギリスと戦争(薩英戦争)を行っています。)
だけど幕府自身は、攘夷を決行する意志などまったくなく、幕府と通じている藩もそれに従います。
決起に逸る長州や薩摩が勝手に欧米と衝突すれば、むしろ幕府にとって都合が良いと考える者さえいました。
その者達の思惑通り、長州藩は決行し、ボロボロにやられてしまいます。(薩摩は善戦し、これによってイギリスと急激に接近することになります。まさに『昨日の敵は今日の友』ですね。)
「これで長州は終わる。」
幕府のみならず、長州藩自身も、そう考えたはずです。
それを完全に反転させたのが、連合軍との和議交渉を任された高杉晋作でした。
「攘夷実行を指令したのは将軍・家茂であり、我が藩はそれに従ったまで。
すべての責任は、その指令を出した家茂にあり、それを支える幕府にある。」
高杉晋作は、そう主張します。
そしてそれは、世界基準でいうと当然すぎる主張でした。
誰が責任を持つのかあやふやになることが多い、この国の在り方を、見事についた反撃だったともいえます。
結局、幕府は(晋作の基によって)筋の通った連合軍の主張を聞かざるを得なくなり、300万両もの賠償金を支払うことを約束します。(結局、幕府は半分の150万両を支払い、後の明治政府が後の半分を支払いました。)
この膨大な賠償金を支払わなければいけなくなったことで、幕府の財政事情は一層逼迫し、この幕府の失態が、後の維新を推し進める一つのきっかけともなっていくのです。
このような逸話を通してみると、高杉晋作という人は、非常に柔軟性に飛んだ人のようにも感じます。
それは刀が武士の誇りだった時代に、ピストルを持ち歩いていたところをみても明らかです。
その高杉晋作からもらったピストルによって、寺田屋で命を救われた坂本龍馬。
その龍馬の目に、幕末の世を共に生きた高杉晋作はどう映ったのでしょうか?
“「ほうじゃ、長州の高杉晋作じゃ。
あん人がおらんじゃったら、ワシはとうに、あの世に行っちゅう。
あん時、高杉さんがくれたピストールのお陰で、なんとかこうして生きちゅうぜよ。
高杉さん。
げに面白き、お人じゃったちや。」”
抜粋: 嶺里ボー “龍馬はん”
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高杉晋作とピストル
文久2年(1862)5月、高杉晋作は千歳丸に乗って上海に渡りました。
海外の見聞を広める(偵察する)為にオランダ領事館を皮切りに、フランス・イギリス・アメリカ・プロシア・ロシアの領事館を訪ね、現地の宣教師らから清国が植民地化に至った過程を聴取しました。
そして同年6月8日、高杉晋作はオランダ商人からピストルを購入しました。
その10日後の18日には、アメリカ商人からも一挺購入します。
その内の一挺が下の写真のスミス&ウェッソン№2です。
この貫通シリンダーと金属カートリッジを使った最新鋭のリボルバー(回転式拳銃)、スミス&ウェッソン№2が高杉晋作から坂本龍馬に手渡され、寺田屋で襲われた際、その中に込められた5発の銃弾(銃自体は6発装塡可能)が龍馬の命を救います。
このスミス&ウェッソン№2はホーレス・スミスとダニエル・ベアード・ウェッソンが設立した会社・スミス&ウェッソンのリボルバーです。
1857年に発売されていた第1号モデル・スミス&ウェッソン№1が、1861年に始まったアメリカの南北戦争でバカ売れしたのを受けて、そのポップアップ型として1861年6月に販売された物なので、高杉晋作は最新の拳銃を購入したわけですね。
龍馬は、その寺田屋の騒動で、このスミス&ウェッソン№2をなくしてしまい、後に前機種のスミス&ウェッソン№1を購入しています。(これは5発しか装塡できなかったので、歴史家の中には寺田屋で使われたのは№1だったんじゃないかという説を唱えている方もいるようです。)
高杉晋作がこの拳銃を坂本龍馬に手渡す時に、どのようなやり取りをされたのかは想像することしかできませんが、この最新式の拳銃を、子供のように眼をキラキラさせながら眺めていたんだろうなぁと思うと、二人とも「やっぱり男の子だったんだなぁ」という思いが深くなります。
そんな無邪気な坂本龍馬の男の子のような側面も、嶺里ボーの小説『龍馬はん』の魅力のひとつです。
“「高杉はんゆうたら、前にお話しされてた?」
「ほうじゃ、長州の高杉晋作じゃ。
あん人がおらんじゃったら、ワシはとうに、あの世に行っちゅう。
あん時、高杉さんがくれたピストールのお陰で、なんとかこうして生きちゅうぜよ。
高杉さん。
げに面白き、お人じゃったちや。
…”
抜粋:: 嶺里ボー “龍馬はん”
嶺里 ボー『 龍馬はん』
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。
その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む