”人斬り以蔵”
この岡田以蔵の通称は、劇作家であり小説家の真山青果が戯曲用に書いた未完の作品『人斬り以蔵』(昭和8(1933)年)が最初のようです。
真山青果版『人斬り以蔵』の、貧しく無教養な岡田以蔵が武市半平太に利用されて「人斬り」になっていき、その後、師であった半平太によって毒殺されそうになり…
というプロットは、後に司馬遼太郎が書いた『人斬り以蔵』(昭和39(1964)年)と酷似しているので、司馬遼太郎はおそらく真山青果が書いた『人斬り以蔵』から多くのヒントを得たものと思われます。
”人斬り”と呼ばれた岡田以蔵は、いったいどんな人物だったのでしょうか?
そして、なぜその”人斬り”になってしまったのでしょうか?
岡田以蔵は土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれました。
嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父・義平が藩の足軽として徴募された為、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継ぎました。
以蔵は18歳の時に武市半平太の剣術道場に通い始めます。
岡田以蔵にとって”運命の人”になる武市半平太は、嘉永7(1854)年、新町に剣術道場を開いていました。
半平太は前年、藩から西国筋形勢視察の任を受けています。
当時の半平太にとって、けっして悪くない話だと思うのですが、なぜかこれを辞退して開いたのが、この剣術道場でした。
この選択が、後の武市半平太の運命だけでなく、岡田以蔵の、そして後に半平太が結成する土佐勤王党に参加する多くの同志たちの運命を変えたことになります。
安政3年(1856年)9月、以蔵は武市に従い、江戸の幕末三大道場の一つに数えられる道場・士学館で一年間の剣術修行をします。
同時期に坂本龍馬も桶町千葉道場で剣術修行をしているので、江戸で故郷の昔話を酒の肴に語り合ったりしていたのかもしれません。
その後の万延元(1860)年、武術修行を装って「桜田門の変」以降、尊王攘夷の機運が高まる時勢を探索する為に土佐に出る武市半平太に従って、岡田以蔵は同門の久松喜代馬、島村外内らと共に中国、九州を周ります。
その途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するだろうと配慮した武市は、豊後岡藩の藩士に以蔵の滞在と、後日、藩士に江戸行の便ができたとき随行させてもらえるよう頼みます。
そして武市と別れ、以蔵は岡藩にとどまって直指流剣術を学びました。
翌年の文久元(1861)年、武市半平太は土佐勤王党を結成し、岡田以蔵も参加します。
その翌年の文久2(1862)年4月8日、武市半平太の指示によって吉田東洋を土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃し殺害します。
この暗殺によって土佐勤王党は薩長が推し進める尊王攘夷の流れに乗ることに成功します。
同年6月、土佐藩主・山内豊範の上京が決まり、岡田以蔵は参勤交代の衛士に抜擢され、武市らと共に参勤交代の列に加わり京へ上ります。
ここから岡田以蔵は”人斬り”へと変わっていくのです。
●『龍馬はん』 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。 その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。 |