武市半平太〜その栄光と挫折

Pocket

土佐勤王党結成

 

安政6(1859)年、前年から続く大老・井伊直弼による『安政の大獄』によって、一橋(徳川)慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内容堂が謹慎を言い渡されます。
その翌年、『桜田門外の変』で井伊直弼が暗殺され、それによって尊王攘夷の機運が一気に高まりました。

 

同年、祖母が死去し、喪が明けると半平太は藩に武者修行の西国遊歴を願い出ました。
これを聞いた坂本龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったそうですが、半平太の本意は西国諸藩の動静視察でありました。

 

文久(1861)元年4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた土佐藩士・大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立し、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流します。
特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴したそうです。

 

この中で土佐藩の尊王攘夷運動がいかに遅れているのかを痛感した半平太は、土佐勤王党を立ち上げます。
その中で坂本龍馬も筆頭加盟者になり、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟しました。

 

 

土佐の一大勢力になった土佐勤王党の勢いを借りて、土佐参政・吉田東洋に度重ねて藩政改革を訴えますが、東洋はそれを「書生論」(理想や理屈だけで現実が伴ってない)と言って受け付けません。
その中には土佐藩にはびこる身分差別も含まれていたのかもしれません。

 

それでも半平太は何度も吉田東洋に伺いを立て、根気よく藩の説得を続けながら、他藩の情勢を伺っていましたが、薩摩が挙兵上京するという報を受け、吉村虎太郎は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加するように説得します。
しかし半平太は、あくまで一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促しました。

 

これによって吉村虎太郎は脱藩、それに続くように坂本龍馬や沢村惣之丞も脱藩します。

 

半平太は、その龍馬の脱藩について後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っています。

 

吉田東洋との接見を繰り返す内に、東洋を良く思っていない元藩主・山内容堂の兄弟、山内豐積・山内豐誉(民部)などと懇意になり、山内豐誉の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」という言葉を暗殺の示唆と取った半平太は、遂に吉田東洋の暗殺を決意します。

 

この性急な流れの中で、武市半平太は嫌が応なく時代の潮流に巻き込まれていくのです。

 

●『龍馬はん』

「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」

維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?

倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……

坂本龍馬と武市半平太3→

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です