武市半平太〜その栄光と挫折

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月形龍之介

 

「月様、雨が…。」

「春雨じゃ。濡れて参ろう。」

 

これは、戦前、舞台や映画で大流行した、行友李風(ゆきともりふう)作の戯曲『月形半平太』の有名な一節です。

 

勤王と佐幕の暗殺合戦が大きな人気を呼んで、大正15〜昭和元(1926年)年には『尊王』『幕末』『義になる虎徹』『乱闘の巻』『修羅王』『勤王か佐幕か』と『月形半平太』シリーズが次々と公開されていきます。
このモデルとなった一人が土佐藩士・武市半平太でした。

 

 

武市半平太(瑞山)は文政12(1829)年9月27日に土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれました。
元々土地の豪農でしたが、半平太より5代前の半右衛門が享保(1726)11年に郷士に取り立てられ、文政5(1822)年には白札格に昇格。(白札郷士は下士の中で一番上の身分になり、「準士格」という「上士」と「下士」の間とする記録もあるそうです。)

 

そして天保12(1841)年、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学びます。
半平太は幼少の頃から勉強ができ、絵が上手く、剣も強いという何拍子も揃った才人だったそうです。

 

嘉永2(1849)年、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子と結婚します。
富子は半平太にとって最愛の妻で、男性は結婚した後も女遊びするのが当然のような人も多い時代の中で、妻一筋を通した心優しい人だったそうです。

 

翌年3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、2年後の嘉永5(1952)年には中伝を受けます。

 

そしてその翌年、ペリーが浦賀湾に来航します。

 

幕末を語る時、何度も出てきてしまうペリーの浦賀湾来航は、坂本龍馬がそうであったように、武市半平太にとっても大きな転機になってしまいます。
岡田以蔵の項でふれましたが、その頃、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けますが、これを辞退し、嘉永7(1854)年に新町に剣術道場を開き、同年(安政元年)に麻田から小野派一刀流の皆伝を伝授されました。

 

しかし同年、土佐を襲った地震で家屋を失い、翌年に新築した自宅に妻の叔父の槍術家・島村寿之助と協同経営で道場を開き、その半平太の道場に120余の門弟が集まったそうです。
そして、この門弟の中に後の土佐勤王党員となる中岡慎太郎、岡田以蔵などもいました。

同年秋には、剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡や香美郡での出張教授を行います。

 

翌安政3(1856)年8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て、江戸三大道場の一つ・鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。
半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、半平太は道場の塾頭になります。
そして、塾頭になった半平太は、乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめたそうです。

 

そして、この江戸で武市半平太は坂本龍馬と共に一人の命を助けています。

 

坂本龍馬は同時期に江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っていました。
そこに龍馬の従兄弟であり、半平太と共に士学館で剣術修行に励んでいた沢辺 琢磨(半平太の親戚でもありました)が、道で拾った金時計を酔った勢いで一緒に飲んでいた友人と共謀して質屋に売ってしまいます。

しかしそれが違法なものだと分かり、追訴を逃れる為に半平太と龍馬の手助けを受けて江戸を逃れます。
そして、この沢辺琢磨は、函館まで逃げ延びるのですが、この沢辺 琢磨については、また違う機会にお話します。

 

話は前後しますが、坂本龍馬と武市半平太は遠い親戚で、子供の頃から顔見知りだったようです。

そして、この江戸での一件に龍馬が加わっているのが、ホントにいかにもなのですが、相談に来た沢辺 琢磨は半平太と同じ道場生だけど、真面目な彼には手に負えなくて、半平太自身が龍馬に助けを願ったのではないか?なんて適当な推測をしてみると一層面白くなります。

 

●『龍馬はん』

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。

坂本龍馬と武市半平太2→

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