平井加尾〜龍馬の幼馴染

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平井加尾〜坂本龍馬の幼馴染

 

これまで坂本龍馬と巡り合った楢崎龍千葉佐那(さな子)について取り上げてきましたが、今回は龍馬が土佐にいた頃の幼馴染み・平井加尾についてお話します。

 

平井加尾は天保9年(1838年)土佐藩士・平井直澄の娘として生まれました。

加尾の兄・平井収二郎は龍馬と同い年で、平井家と坂本家は家族ぐるみの付き合いをしていたようです。

兄・収二郎と4歳年下の平井加尾と龍馬の姉・乙女は、小高坂村・門田宇平が教える一絃琴の稽古仲間で、その他にも和歌をたしなむ才色兼備。
そのだけでなく、「強きをくじき弱きを助け、信義を重んじる」という正義感の強い女性だったそうです。

 

二人の間に大きな変化が訪れたのは、嘉永6年(1853年)龍馬が江戸へ一年間の剣術修行に出かけた時でした。
当時、15歳だった加尾は、どんな気持ちで龍馬を送ったのでしょうか?

 

その翌年、龍馬は土佐に戻って来ますが、翌々年、再度の剣術修行に出かけ、2年後の安政5年(1858年)に土佐に戻ってきますが、翌年、今度は加尾が、京の三条家に嫁いだ土佐15代藩主・山内容堂の娘・友姫の御付役として上洛してしまいます。

 

加尾はもう20歳になっていました。

 

加尾が上洛した翌々年の文久元年(1861)9月29日、龍馬は加尾に謎めいた一通の手紙を送ります。

 

先ず先ず御無事と存じ上げ候。天下の時切迫致し候に付

一,高マチ袴

一,ブツサキ羽織

一,宗十郎頭巾

他に細き大小一腰各々一

ご用意あり度存上げ候

 

それは「袴(はかま)に羽織、顔をすっぽり隠せるような頭巾と、細身の刀をご用意ください。」というものです。

 

加尾は、なぜこれを用意しなければいけないのか意味が分からなかったものの、

「龍馬の奇行は今に始めぬことながら、定めて一大事と思い立ちしものならん、と女史(加尾)は人目もあれば、袴と羽織は親戚への土産物とかこつけて用意した」
(龍馬の奇行は今に始まったことじゃないし、きっと一大事を思い立ったに違いない。とはいっても私は女性なので、袴と羽織は親戚への土産物と理由をつけて用意しました)

と、平井女史の涙痕録』の中で述懐しています。

 

結局その後、龍馬から連絡はなく、龍馬の死によって、それがいったい何だったのか分からずじまいになりました。

 

そして、その手紙の半年後、文久2年(1862年)3月24日。
坂本龍馬は土佐藩を脱藩します。
それを知った兄・平井収二郎は加尾に「きっとそっちに行くと思うが、龍馬からどのような相談をされても承知するな。」と手紙を出します。

 

「元より龍馬は人物なれども書物を読まぬゆえ、時として間違いし事も御座候得ば、よくよく御心得あるべく。」(収二郎)

 

学のある収二郎からすると、龍馬は無計画で非常識な生き方をしているように映ったのでしょう。

 

収二郎の心配をよそに、龍馬はそれから2度と加尾に連絡を取らず、顔を合わせることもありませんでした。

 

上で取り上げた平井女史の涙痕録』の中で、加尾は、龍馬と京で会えなかったのは、京都伏見の寺田屋で起きた薩摩の同士討ちをきっかけに浪士の取り締まりが厳しくなったためだろう。」と言っています。
それもあったでしょうが、もしかすると龍馬は兄・収二郎の思いを察していたのかもしれません。

 

●『龍馬はん』

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。

龍馬との別れ〜兄・収二郎との別れ→ 

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