汗血千里駒〜坂崎紫瀾と西山志澄

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『汗血千里駒』が生まれるまで

 

『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)(明治16年(1883年)~)は、坂崎紫瀾が高知の土陽新聞に連載していた坂本龍馬の伝記小説です。
そして坂本龍馬はこの小説によって全国にその名を知られるようになりました。

 

ここで『汗血千里駒』のお話をする前に、当時の新聞についてちょっとお話させてください。

 

幕末の文久元年(1862年)、初の日本語の新聞『官板バタビヤ新聞』が刊行されます。
これはジャワで発行されていたオランダ語の新聞『ヤパニッシュ・クーランド』を、幕府の蕃書調所が和訳したものだそうです。
ただ、当時新聞はまったく浸透しておらず、一般的には、天変地異や大火、心中など時事性の高いニュースを速報性をもって伝える「瓦版」が親しまれており、妖怪出現などのガセネタもいっぱいある娯楽志向の高いものも多かったそうですから、瓦版は現在の東スポなどに近いものだったのかもしれません。(東スポさん、ごめんなさい >_<)

 

慶応4 年(1868年)2月、『中外新聞』、慶応4 (1868) 年4月『江湖新聞』と、佐幕派の新聞が次々と刊行されますが、幕府が倒れると間もなく発行禁止令を受けます。

 

そして1870年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊されました。

 

時代が明治に変わると、文明開化の流れの中で多数の新聞が創刊されます。
そこには、明治政府が新聞の普及は国民の啓蒙に役立つと考え、新聞を積極的に保護する政策を取ったことも強く影響しました。

その後、現在の5大紙、毎日新聞(明治5(1872)年)、読売新聞(明治7(1874)年)、日本経済新聞(明治9(1876)年)、朝日新聞(明治11(1878)年)、そしてかなり遅れて産経新聞(昭和8(1933)年)が創刊されています。

 

話は少し前後しますが、明治7(1874)年の民選議院設立建白書の提出などが契機になって、自由民権運動が盛んになると、それまでの御用新聞より民権派の勢力が強くなり、政府に批判的な論調が目立つようになってきます。
この動きを嫌がった明治政府は明治8(1875)年に新聞紙条例、讒謗律を制定して新聞の言論弾圧に乗り出しました。

 

そんな中で創刊されたのが『土陽新聞』(明治11(1878)年)です。

土陽新聞は自由民権運動の中心人物・板垣退助が創立した政治結社「立志社」の機関紙でした。

 

自由民権運動とは、憲法の制定、議会の開設、言論の自由や集会の自由の保障などを求めた運動ですが、「明治十四年の政変」(1881年 )以降、政府の取り締まりがより一層厳しくなり、自由民権運動を推し進めようとする土陽新聞は発行停止などの処分を度々受けてしまいます。

 

それをかわす為に、紙面の内容をソフト路線へ転換した連載小説第一弾が主人公・坂本龍馬の活躍を描いた『汗血千里駒』だったのです。

 

●『龍馬はん』

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。

 

坂崎紫瀾と西山志澄→

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