信吾との別れ
朝廷に追討の命が下されてからの天誅組の行動は、まったくまとまりのないものでした。
「正義」を掲げて攻撃を仕掛けた側が、守勢に回ると途端に機能しなくなるのはいつの世も同じなのでしょう。
幕府は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などに天誅組討伐を命じ、9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下されて、10日の総攻撃の際は諸藩1,400の兵が集まっていたそうです。
敗走を重ねる後、翌年文久3(1863)年9月24日、鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇。
那須信吾は忠光を逃す為に決死隊を編成して敵陣に突入しますが、彦根藩士の弾に当たり討ち死にします。
信吾の戦死の報を聞いた俊平は、句を詠んで那須信吾の志を讃えました。
大君の みことかしこみ 仕えなむ
身はずたずたに よし裂かれるとも
享年35。
その早過ぎる死を、父・俊平はどのように受け止めたのでしょうか。
俊平の壮絶な最期
信吾が亡くなった翌年の元治元(1864)年、山内容堂は執拗に吉田東洋の暗殺者を追っていました。
そして6月5日、吉田東洋暗殺に那須邸が関わっていることが藩に知られ、師への藩の追及を恐れた配下たちは翌日6日、俊平を脱藩させます。
玉川壮吉と共に脱藩した俊平は、諸藩の脱藩浪士が中心なって結成された長州藩への合力部隊「忠勇隊」に入り、那須俊平は第二伍々長を拝任します。
そして同年7月19日、「禁門の変」に参加し、薩摩、会津藩らと凄まじい攻防戦を演じましたが、鷹司邸後門での戦闘で討死しました。
溝に足を取られ戦闘不能に陥ったところを越前藩兵に襲われ首を討たれたと伝えられています。
皇国の ためともならん 武人の
老の命のあらん限りは
享年58。
この時代でなければ、もっと穏やかな人生を過ごせたはずだった2人。
その功績と壮絶な死を悼んで、現在、梼原町の邸宅跡に那須俊平の銅像があり、同町の維新の門の前には那須信吾と共に並ぶ銅像が立てられています。
嶺里 ボー『 龍馬はん』
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。
その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む