河田小龍〜龍馬に”夢の種”を蒔いたひと

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ジョン万次郎から坂本龍馬へ

 

日本画家・河田小龍は文政7(1824)年10月25日、土佐国高知城東、浦戸片町水天宮下、御船方の軽格の藩士、土生玉助維恒の長男に生まれ、祖父・河田金衛門の河田家を継ぎます。

子供の頃から絵が上手だった小龍は、南宋画家の島本蘭渓の下で画を学び、16歳のころから藩儒学者岡本寧浦の下で儒学を学びました。

 

弘化元(1844)年、吉田東洋に従って京で遊学、狩野派・狩野永岳に師事します。
その4年後の嘉永元(1848)年の師と共に二条城襖絵の修復にも携わりました。

 

嘉永5(1852)年、河田小龍は吉田東洋の命を受けてジョン万次郎(中浜万次郎)の取調べを行うことになります。

話は少し横にそれますが、吉田東洋というと土佐勤王党を苦しめたレイシスト的なイメージがあるのですが、河田小龍は郷士の出なので、その小龍と親しい関係にあったところをみると、極端な差別主義者ではなかったのかもしれません。

 

土佐藩に許可をもらい、万次郎を自宅に寄宿させて、寝食を共にしながら毎日役所に出頭させるなかで、万次郎に読み書きを教えつつ、小龍自身も万次郎から英語を学び、友情を感じ合える関係になっていきます。

小龍は、特に万次郎が語る異国の生活事情に大いに驚かされ、啓発されます。
造船技術や生活環境の違いなど、当時の日本の現状と異国の発展ぶりとの落差に驚き、大統領が市民による選挙で選ばれることには万次郎の話が事実なのか疑いさえしました。

 

儒教を学んでいた小龍にとって、市民が国のトップを決めるなんて信じ難かったのは当然だと思いますが、その違いに興味を持ち、受け入れる感受性が河田小龍にはあったということだと思います。

 

漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)

 

その万次郎の話に対して小龍は一切の私見を加えずに、挿絵を加えて漂巽紀畧五巻として出版し、藩主に献上しました。
そして同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられることとなっていきます。

また、かねて親交のあった藩御用格医師・岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉・乙女だったので、小龍は龍馬に「外国の大船を買い同志を乗せ人・荷物を積み海洋に乗り出し、『貿易』によって異国に追いつく事こそ現在の日本がとるべき道だ」と龍馬に説いたそうです。

 

明治12(1879)年に隠居し家督を譲ります。
そしてその10年後の明治22(1889)年、京都府疏水事務所の庶務付属に採用され、琵琶湖疏水工事記録画の作成に当ります。
疏水の竣工した明治23(1890)年4月から一年足らずに多くの絵図を残しています。

 

明治27(1893)年、京都居住の子・蘭太郎の元に移り、内国勤業博覧会外展覧会にて賞を受けます。

 

その4年後の明治31(1898)年12月19日に死去。
享年75。

 

坂本龍馬は手紙の中によく挿絵を描いています。
その画の自由さの中に河田小龍への思いが垣間見える気がします。

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』

 

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む

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