陸奥宗光〜カミソリ外交

Pocket

陸奥宗光〜カミソリ外交

 

明治維新後、新政府が設立されると岩倉具視の推挙で伊東博文らと共に外国事務局御用係に就任します。

 

戊辰戦争の際、まだ新政府を信用せず局外中立を表明していた米国を説得して、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功し、当時、新政府は財政基盤が脆弱だったので未払だった十万両も、宗光が大阪の商人たちと交渉して一晩で借り受けることに成功します。

 

このストーンウォール号によって宮古湾海戦に勝利した新政府は、制海権を奪い徐々に函館五稜郭へと追いつめて、榎本武揚率いる旧幕府軍を降伏に至らせました。

 

その後、宗光は兵庫県知事(明治2(1869)年)、神奈川県令(明治4(1871)年)、地租改正局長(明治5(1872)年)など様々な要職に就きますが、薩長藩閥中心の人事に憤激して、官を辞し、和歌山に帰ります。
その年にに蓮子夫人が亡くなり、翌明治6(1873)年に後にその美貌と聡明さで「ワシントン社交界の華」と呼ばれる亮子と結婚します。

 

 

そしてその2年後の明治8(1875)年、大久保利通・木戸孝允・板垣退助に周旋役の伊藤博文・井上馨を交えて協議した大阪会議で政府と民権派が妥協し、宗光はその一環で設置された元老院議官になります。

 

しかし明治10(1877)年の西南戦争の際に、土佐立志社の林有造・大江卓らの政府転覆計画に加担した罪によって禁固5年の刑になり、翌年、山形監獄に収容されます。

 

その中で自著を著し、「最大多数の最大幸福」を求めるイギリスの公益主義の哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込みました。
そして出獄後の明治16(1883)年にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』を「利学正宗」というペンネームで刊行します。

 

明治16(1883)年1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学し、内閣制度の仕組みや、議会の運営の仕方など、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を猛勉強し、また、ウィーンでは後に日本初の憲法『大日本帝国憲法』に大きな影響を与えるシュタインの国家学を学びました。

 

明治19(1886)年2月に帰国し、井上馨の計らいで外務省に出仕します。

 

明治21(1888)年、駐米公使になり、同年、駐メキシコ公使も兼任して、日本最初の平等条約である日墨修好通商条約をメキシコ合衆国との間で締結することに成功します。

 

明治23(1890)年、公使の任を終えて帰国すると、主に議会対策を期待されるかたちで第1次山縣内閣の農商務大臣に就任します。

同年に行われた日本で初のに衆議院議員総選挙に大臣在任中でありながら、和歌山県第1区から出馬し初当選を果たし、1期を務めます。

 

陸奥宗光は閣僚中、唯一の公選によって選ばれた衆議院議員でした。
すでに役職に就きながら、自らの立場を民に問う宗光の正義感や誠実さは素敵だなと思います。

 

ただ、この後に起きた足尾銅山鉱毒事件(日本初の公害事件)では、宗光の次男・潤吉が足尾銅山の経営者・古河市兵衛の養子だった影響なのか、田中正造の質問主意書を受けつけませんでした。

 

同年5月成立した第1次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となりますが薩摩派との衝突で辞任します。

 

同年11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、宗光自身も身を置いた松方内閣を批判、明治25(1892)年3月、辞職して日本国憲法施行に関わる枢密顧問官となりました。

 

”政治はアートだ”と言った陸奥宗光のチカラが最大限に発揮されるのは、もうすぐです。

 

●『龍馬はん』

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。

政治はアートなり。サイエンスにあらず。→

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です