陸奥宗光〜カミソリ外交

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政治はアートなり。サイエンスにあらず。

 

陸奥宗光は、その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任します。

 

早速、試験採用による職務外交官の制度を確立し、 明治27(1894)年、不平等条約改正に最も反対していたイギリスとの間に日英通商航海条約を締結します。
安政五カ国条約締結以来、日本政府の悲願だった治外法権の撤廃がなされました。

 

この条約締結におけるイギリス側の目的はロシア帝国の南下政策に対抗するために日本の軍事力に期待したものだったともいわれています。

 

この一番の難題をクリアしたことで、明治27(1894)年から翌年にかけて同内容の条約をアメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、オランダ、イタリアなど14カ国と次々に調印を行っていきます。

 

陸奥宗光が外務大臣の時代に条約を結んた15ヶ国すべてとの間で、幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃を成し遂げたことを讃えて、宗光は同年8月、子爵を叙爵します。

 

 

一方で、同(明治27)年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵させ、7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立を果たし、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始します。

そして宗光は日清戦争におけるイギリス、ロシアの中立化にも成功させます。
この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので『陸奥外交の名を生みました。

 

この時期、宗光は肺結核を患っていて、戦勝後の下関条約の調印を終え、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉の閣議は、兵庫県舞子で療養していた陸奥の病床で行われました。
そして日清戦争の厚労を讃え、宗光は伯爵に陞爵しました。

 

明治29(1896)年、外務大臣を辞し、大磯別邸の聴漁荘やハワイで療養生活を送りながら、雑誌『世界之日本』を発刊します。

 

明治30(1897)年8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去

 

享年53。

 

陸奥宗光は生前、坂本龍馬のことを

「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。」

や、

「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。」

と回想し、懐かしみました。

 

坂本龍馬亡き後、宗光は様々な状況に自らの身を置きながら、一度も足を止めることなく走り続けます。

 

そんな陸奥宗光の軌跡を追っていると、黎明期の日本の破壊と再合成の慌ただしい繰り返しに、目眩がしそうになります。

 

それは鎖国の時代、階級制度の時代を生きた彼らにしか分からない、彼らの希望を叶えるための、唯一の方法論だったのかもしれません。

 

”政治はアートなり。サイエンスにあらず。”

 

そう語った陸奥宗光が、もし今、生きていたら、”サイエンス”ですらない怪しい数字の羅列の世界で生きている私たちを、どんな思いで見つめるのでしょうか?

 

 

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