横井小楠〜Natural Born Thinker

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非業の死

 

慶応3(1867)年10月15日、大政奉還が成立します。

 

同年12月18日、朝廷から、新政府に登用したいので横井小楠を上京させるように通知する書状が京都の熊本藩邸に送られます。
藩内では小楠の登用に対して異論が多く、家禄召し上げ・士席剥奪の状態ということもあって、”病気”ということで朝廷に断りを入れます。

 

翌年3月5日、横井小楠の登用辞退を申し出る書を長岡護美が副総裁の岩倉具視に提出しますが、岩倉は小楠の事を高く評価していたため「心配には及ばない」と内示し、3月8日に改めて小楠に上京の命令を出しました。
こうなると熊本藩も小楠の上京を認めるしかなくなり、3月20日に小楠と都築四郎の士席を戻し、3月22日に上京を命じました。

 

小楠は上京後の4月21日に参与に任じられ、翌22日には従四位下の官位を与えられます。

 

 

やっと新しい時代が訪れ、いよいよ横井小楠の力が発揮されると思われた矢先、最悪の事態が小楠を襲います。

 

明治2(1869)年1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側で、小楠は十津川郷士ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けます。

 

上田立夫が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、他6人に斬り込まれ、横井小楠は暗殺されてしまったのです。

 

享年61。

小楠の首は鹿島又之允が切断し持ち去りましたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取りました。

 

その後、捕まった連中たちが語ったその殺害の理由は「横井小楠が日本をキリスト教化しようとしていたため」というまったく根も葉もないデタラメなものでした。

さらに新政府の開国政策に不満を持つ保守派の人たちが、この事件の裁判の中で『天道覚明書』という偽書を作成して、横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥ります。

 

痛ましい殺害だけにとどまらず、亡くなってからこんな汚名を着せられるなんて…。
この一連の混乱こそが、なかなか見通しのつかない明治の時代の始まりを意味していたように感じます。

 

そして、その能力においては吉田松陰を遥かに凌ぐ才人・横井小楠の、多くの人に尊敬はされたけど、深く親しまれることがなかったその人生を、少し切なく感じてしまうのです。

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』

 

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む

 

 

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