横井小楠〜Natural Born Thinker

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トラブルメーカー〜横井小楠

 

坂本龍馬の師・勝海舟は「俺は今までに恐ろしいものを二人見た。一人は横井小楠、もう一人は西郷隆盛である。横井の思想を西郷の手で行われたら敵う者はあるまい。」と語ったと言われています。

勝海舟がそう語った横井小楠は、血生臭い幕末の時代を飄々と生きている印象だったのですが、実際はどんな人物だったのでしょうか?

 

横井小楠は文化6年(1809年)8月13日、肥後国熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれました。

 

文化13(1816)年、8歳で肥後藩の藩校・時習館に入校、天保8(1837)年には時習館居寮長(塾長)になります。

 

時習館の居寮生の扱いや、古い学風に不満があったため、居寮新制度を実行しようとしますが、結局、それを保守的な上層部が疎むようになったためにうまくは行きませんでした。
ただ、その行動を支持していた家老・長岡是容の尽力もあり、天保10(1839)年、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生になります。

 

小楠が江戸で遊学をしていた頃、『モリソン号事件』に端を発する『蛮社の獄』という言論弾圧事件が起きており、少しずつ幕末の変化を感じさせ始めた時期でもありました。

同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、酩酊した小楠は、藩外の者と喧嘩になったことを咎められて、翌年2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処されてしまいます。

 

その間、小楠は朱子学の勉強に没頭し、翌天保12(1841)年、家老・長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国という錚々たるメンバーで研究会を開き、自らの学びの場であった時習館の、実務に役立たない文章や字句の解釈に力を注いだ『学校党』に対抗するように、”実際に役立つ学問を学ぶ”『実学党』を起こしますが、それによって藩政が混乱するのを危惧した長岡是容は家老職を辞職し、研究会も取り止めます。

 

 

天保14(1843)年、私塾「小楠堂」を開き数多くの門弟を輩出します。

嘉永2(1849)年、福井藩士・三寺三作が小楠堂で学び、これによって横井小楠の名前が福井藩に伝わり、その流れから越前藩は嘉永5(1852)年、小楠に学校の創設にあたって教えを求めたので、小楠は「学校問答書」という建白書を作り、翌年は『文武一途の説』を書いて越前藩に送ります。
同年10月、ロシア軍艦に乗ろうとして長崎に向かっていた吉田松陰が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間話し合いますが、小楠が書いた「学校問答書」を松蔭は長州藩にも推薦しようとしたほど大変感心したそうです。

 

安政2(1855)年5月、農村の沼山津に転居し、自宅で「四時軒」と名付けた私塾を開きます。

この「四時軒」には坂本龍馬も度々訪ね、他に井上毅、由利公正、元田永孚など、維新・明治を支えた人たちもここを訪問しています。

この頃から小楠は主張を攘夷論から開国論へと移します。
それに伴って長岡是容との意見対立が生まれ、『実学党』は是容の坪井派と小楠の沼山津派に分裂しました。

 

小楠は福井藩主・松平春嶽の招きで安政5(1858)年3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行いました。

 

実は春嶽は前年、熊本藩主・細川斉護に小楠の福井行きを願い出ているのですが、小楠が藩校に批判的な人物であることから春嶽に断りを入れました。
しかしその後も春嶽は度重ねて要請をし、やっと承認されたのです。

 

●『龍馬はん』

「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」

維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?

倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……

『国是七条』→

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