由利公正〜経済のプロフェッショナル

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五箇条の御誓文

 

坂本龍馬が亡くなった後、彼の進言を受けた新政府は福井藩に由利公正の謹慎を解き、出仕させるように申し渡します。
しかし藩はそれをなかなか承諾しませんでした。

 

再三の招請を受け福井藩はやっとこれを認め、公正は新政府の徴士(議事官)となります。
この時点での徴士は、長州藩の木戸孝允、横井小楠と公正の3名だけでした。

ここにいる横井小楠と由利公正はどちらも藩が嫌がった人物だったというところがとても面白いですよね。

 

その由利公正の新政府への貢献は絶大でした。

 

立ち上がったばかりの新政府には圧倒的に国家予算が不足していたので、公正は太政官札(政府が発行した、日本で最初の全国紙幣)300万両の発行を提言します。

また、その紙幣が民衆の信を得るためには、新政府そのものが民衆の信用を得なければならず、そのためには新政府の大義を明らかにして、その方針を示さなければならないと説きます。

 

そして公正は、龍馬が作った『新政府綱領八策』にヒントを得た

 

一、 庶民志を遂げ 人心をして倦まざらしむるを欲す

一、 士民心を一つにし 盛んに経綸を行うを要す

一、 知識を世界に求め 広く皇基を振起すべし

一、 貢士期限を以て 賢才に譲るべし

一、 万機公論に決し 私に論ずるなかれ

 

という、『五箇条の御誓文』の草案となる『議事之体大意(ぎじのていたいい)』を起草します。
そしてこれが後の明治憲法へと展開していくのです。

 

しかし、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、公正は明治2(1869)年に辞職します。

 

その2年後、由利公正は廃藩置県後、初の東京府知事に就任。

府知事として落ち着く間もなく翌年に銀座大火が発生し、現在の丸の内、銀座、築地の一帯が全焼してしまいます。

 

当時の東京は木造家屋が多かったため、由利は銀座大火を受けて東京を防火防災都市とすべく銀座に煉瓦造りの建築物を数多く建てたり、海外の目抜き通りのように道幅を拡張するなどといった都市改造計画を立案・実行に移します。

 

福井藩を再建する際も大胆な経済政策を取りましたが、ジョン・メイナード・ケインズ(英・1883年6月5日 – 1946年4月21日)が『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)というマクロ経済学の楚となるものを発表する半世紀以上前に、大胆で、細やかで、包括的な経済政策を打ち続けた由利公正の偉業は、もっと讃えられてもいいように感じます。

 

それを思うと、これから様々な方面で「由利公正」を語る機会が増えてくるんじゃないかとも思えます。

 

同年、岩倉使節団の随行に加わることになりアメリカ、ヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究。

明治7(1874)年、板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書を提出します。

 

明治8(1875)年に元老院議官に任ぜられ、明治20(1997)年に子爵に叙せられます。
明治23(1890)年には貴族院議員。同年10月20日、麝香間祗候となり、明治27(1894)年3月、京都の有隣生命保険会社の初代社長に就任しました。

 

 

ここで取り上げている方達を見ていても感じられると思いますが、幕末から明治にかけて活躍した人たちは、不遇な最後を遂げた方が少なくありません。

 

享年80。
その中にあって、由利公正はとても穏やかにその生涯を終えました。

 

嶺里 ボー『 龍馬はん』

 

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む

 

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