坂本八平・息子への思い
〜「修行中心得大意」
坂本龍馬を調べていると、いろんな才能を持っている、様々な人たちと巡り合っているのに、いつも驚かされます。
その行動力、感性、そしてなによりも強い意志を持った坂本龍馬を育てた父・坂本八平とは、どういう人物だったのでしょうか?
坂本八平(直足)は寛政9(1797)年、土佐郡潮江村の白札郷士、山本家当主・山本信固の次男として生まれました。
ちなみに八平の父・山本覚右衛門の弟・宮地信貞の曾孫が明治の自由民権活動家の宮地茂春で、その妻・軍が板垣退助の次女になります。
なので、坂本龍馬と板垣退助は遠い親戚ということになるんですね。
話は戻りますが、坂本龍馬の父・八平は実直な性格で、身体も大きく、幼少の頃から槍に秀で、後に弓・槍共に免許皆伝されています。
坂本龍馬と剣術修行の時にお話ししましたが、合戦の際に有効と言われていたのは刀ではなくて槍や弓でした。
なので、坂本八平は利を優先した武術を学ばれていたともいえます。
その上、書や歌など学問にも優れていて、まさに文武両道の人でした。
そして16歳の時に、坂本直澄の娘・坂本幸の夫となって、郷士坂本家の婿養子となり、第3代目の郷士・坂本家当主となります。
坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商・才谷屋の分家でしたが、八平は城下においても富を築き、「城下公方」と呼ばれるほどの経営手腕を見せたそうです。
坂本八平は幸との間に二男三女をもうけますが、その末っ子が坂本龍馬になります。
妻・幸は弘化3(1846)年、龍馬が10歳の時に亡くなり、その後、八平は北代重治の娘・北代伊予と再婚します。
幼少の頃、泣き虫だった龍馬を、八平はとても厳しく育てたそうで、龍馬が初めて江戸へ剣術修行に行く際に、
・片時も忠孝を忘れず、修行第一の事
(常に主君への忠義と親孝行の心を忘れないで、修行に専念しなさい。)
・諸道具に心移り、銀銭を費やさざる事
(あれこれ何でも欲しがって、無駄なお金を使っちゃダメです。)
・色情にうつり、国家の大事をわすれ心得違いあるまじき事
(国家の大事を忘れて女遊びにうつつを抜かし、自分が何を成すべきか忘れちゃいけません。)
右三ヶ条を胸中に染め、修行を積み、目出度く帰国することが第一である。
嘉永六年三月吉日 老父
龍馬殿
という、「修行中心得大意」の三ヶ条を書いて渡します。
龍馬はこれを「守」と書いた紙に包み、お守りとして生涯大事にしました。
そして、現在、多くの龍馬の手紙と共に、京都国立博物館に残っています。
こんな、子供でも耳を傾けなさそうな、親のつまらなくて堅苦しい説教みたいな文を、龍馬は胸にしまい続けていたのです。
きっと龍馬は初めて江戸へ剣術修行に向かう時の思いを持ち続けながら、この書と共に激しい幕末の世に立ち向かって行ったんですね。
坂本八平は 安政2(1855)年12月4日、59歳でこの世を去りました。
大切な父を亡くして間もない翌年8月、龍馬は二度目になる剣術修行のために江戸へと向かいます。
その胸に八平が残してくれた「修行中心得大意」を携えて。
嶺里 ボー『 龍馬はん』
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。
その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む