春雨じゃ。濡れて参ろう。
文久3(1863)年1月25日に入京した容堂は、中川宮から平井・間崎らの動きを知らされ激怒して両名を罷免し土佐へ送還させます。
容堂は同年3月に土佐へ帰国すると、すぐに吉田東洋暗殺の犯人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされます。
この頃の半平太は、薩摩と長州の融和に腐心していましたが、容堂の帰郷によって土佐勤王党をとりまく情勢が一気に険悪化する中、4月に半平太は薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐために帰国しようとします。
久坂玄瑞は半平太の身の危険を感じて、帰国せずに脱藩して長州へ亡命するように勧めますが、半平太は命がけの同志たちと共に一藩勤王の思いを通すと言って帰国してしまいます。
しかしもう土佐は半平太の手に負える状況ではありませんでした。
容堂へ平井収二郎たちの助命を嘆願しましたが、収二郎たちは激しい拷問の末、死罪が決まり、文久3(1863)年6月8日、3名共に切腹します。
そして「八月十八日の政変」が起き、長州藩が失脚。
吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組も討ち死にしてしまいます。
尊攘の流れが一気に断たれようとする中、9月21日に武市半平太ら土佐勤王党幹部に逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄されます。
文久(1961)元年に土佐勤王党を作ってからわずか2年。
つかの間の栄光は、深い絶望へと変わってしまいました。
獄中は獄吏の便宜により家族や獄中の同志との極秘文書のやりとりが可能だったようで、半平太は獄中から同志の団結を望みますが、岡田以蔵が元治元(1864)年4月に捕縛されて土佐に送還されて以降、以蔵の証言により次々と京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名前が明るみになり、その実行者も逮捕され、土佐勤王党は壊滅へと追い込まれていきました。
同年7月に安芸郡で郷士・清岡道之助ら23名が半平太たちの釈放を要求して挙兵し、藩庁から派遣された足軽800人よって鎮圧される野根山屯集事件が起き、9月に清岡らは斬首に処されます。
その頃、監察府の陣容が一新され、小笠原唯八・乾(板垣)退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問されます。
半平太の実弟・田内恵吉は監察府による厳しい拷問に耐えかねてついに自供を始めてしまい、更なる自白を恐れて服毒自殺、更に島村衛吉も拷問死します。
また、半平太は上士になっていたので、これまでは拷問を受けずに済んでいたのですが、これからはそれも行われるだろうと考え、弟と同様に服毒自殺も考えたそうです。
しかし以蔵以下4人の自供以外は皆否認をし続けた為に、監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。そして慶応元(1865)年5月11日、業を煮やした容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、武市半平太は切腹を命じられます。
そして、岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まります。
半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、死刑は盟主である半平太の切腹と以蔵ら自白組4名の斬首のみとなり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められたのです。
刑は即日執行になり、以蔵ら4名は獄舎で斬首。
切腹を命じられた武市半平太は体を清めて正装し、同日20時頃、南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた3回腹をかっさばく「三文字割腹の法」を用いて腹を切り、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命しました。
享年37。
辞世の句は、
「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
これは私見ですが、武市半平太は久坂玄瑞や玄瑞の師・吉田松陰とは似て非なるものを感じます。
半平太の残した優しくて柔らかい絵を眺めていると、玄瑞や松蔭のような頑固さは持ち合わせていないように思えて、時代さえ違っていればもっと別の生き方ができたように感じるのです。
「春雨じゃ。濡れてまいろう。」
この名文句は、時を超えて武市半平太の思いを現していたのでしょうか。
嶺里 ボー『 龍馬はん』
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。
その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む