千葉佐那〜千葉の鬼小町

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坂本龍馬と桶町千葉道場

 

坂本龍馬は江戸の武術修行の際、北辰一刀流の創始者・千葉周作の玄武館(千葉道場)の分室道場、桶町千葉道場に通いました。

 

北辰一刀流の創始者・千葉周作は、それまでの秘密主義的な武術の世界に異論を唱えた第一人者でした。

「技の千葉」と呼ばれるほど技に優れ、剣術を六十八手の技に分類します。

そして、それらの技術を門外に開いたのです。

その千葉周作が開いた玄武館(千葉道場)は、「力の斎藤」(神道無念流・練兵館)、「位の桃井」(鏡新明智流・士学館)と並び、幕末江戸三大道場の一つに数えられます。

 

 

千葉道場があった於玉ヶ池周辺は学者町だった為、門人が学問に接する機会も多かったそうで、後の新撰組総長・山南敬助や、その前身となる壬生浪士組を結成した清河八郎、それに勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三周」と呼ばれる山岡鉄舟など、明治維新に様々な影響を与えた門人もいました。

 

話が横に逸れますが、前回お話したように、突然剣術道場が盛んになったのは、異国の脅威を感じ、戦さに備えようとしたからで、その影響もあって、幕府が推進した関東地方以外では、剣客を生んだ主な地域は、倒幕運動に積極的だった薩摩国・土佐国があり、幕末期の剣術流派の総数は、200以上あったといわれています。

上の山南敬助や清河八郎のように、浪士組(新選組)などの剣客集団が誕生したり、剣術を学んだ者たちが、一連の闘争や政争に関与することによって、明治維新は加速しました。

 

話を戻しますが、その玄武館の分室・桶町千葉道場は千葉定吉の弟・千葉定吉が開いた道場で、龍馬が修行に行っていた当時、定吉は鳥取藩の剣術師範に就ていたので、龍馬を教えたのは定吉の息子・千葉重太郎だったようです。

そして、龍馬の婚約者・千葉佐那も龍馬の稽古を付けていたようです。

 

江戸で剣術修行をしながら、坂本龍馬はどんな人と出会い、どんな言葉を交わしたのでしょうか?

そして江戸で学んだ北辰一刀流は龍馬に何をもたらし、何を変えたのでしょうか?

 

明治維新によって武士の身分はなくなり、廃刀令によって剣術家も廃業せざるを得なくなります。

1883年(明治16年)、周作の孫の千葉周之介は、山岡鉄舟などの後見によって玄武館を再興します。

また、周作の三男・千葉道三郎に師事した小林定之は至誠館を開きます。

そしてその養子の小林四郎は、北海道小樽市へ渡り、1913年(大正2年)小樽に玄武館を開きました。

(当時、様々な人たちが北海道に渡っていますよね。)

 

明治以降、「剣術」は「剣道」と言葉を変えました。

「術」が「道」に変わり、幻想は現実へと変換されます。

現在、道場で小さな子供を教える大人たちの口元に、ほんの少しでも笑顔が生まれたのなら、それはきっと大きな変化だったと言えるのでしょう。

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』

 

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む

 

 

 

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