横井小楠〜Natural Born Thinker

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『国是七条』

身内の不幸が重なり熊本と福井を行き来しますが、万延元(1860)年2月、福井藩による3回目の招きによって再び福井に赴きます。

 

この頃、福井藩内では、保守・進歩の両派が対立していたために、小楠は『国是三論』を著し、皆に挙藩一致を呼びかけました。

 

その『国是三論』とは、「天・富国」「地・強兵」「人・士道」の三論で構成された問答集でした。
小楠はその中で、福祉、教育、税制改革など、現在にも通じるテーマを多岐に渡り深く考察しています。

翌年、横井小楠は江戸に赴き、松平春嶽と初対面します。
そしてこの江戸滞在中に勝海舟や大久保一翁と交流を持ちました。

 

同年10月、福井の書生7人を連れて熊本の沼山津に帰りますが、11月26日に狩猟に出掛けた際、藩主専用の鷹狩の場所となっていた沼山津の沼沢地で、残った弾を射ち放ってしまい、謹慎処分となります。

 

 

文久2(1862)年6月、小楠は福井藩から4回目の招きを受けます。

 

7月に江戸の越前松平家別邸を訪れ、江戸幕府の政事総裁職になった春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として『国是七条』を起草します。

翌8月には大目付・岡部長常に招かれ、『国是七条』の内容について説明を行い、一橋徳川家邸では徳川慶喜に対面して幕政について意見を述べました

この頃、坂本龍馬・岡本健三郎と福井藩邸で会っているそうです。

 

この『国是七条』は、

 

  • 大将軍上洛して、烈世の無礼を謝せ(将軍は自ら京にいって、天皇へ過去の無礼を謝る)
  • 諸侯の参勤を止め、述職とせよ(参勤交代制度の廃止)
  • 諸侯の室家を帰せ(大名の妻子を国元に帰す)
  • 外様譜代に限らず、賢を選んで政官となせ(優れた考えの人を幕府の役人に選ぶ)
  • 大いに言路を開き、天下公共の政をなせ(多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う)
  • 海軍を興し、兵威を強くせよ(海軍をつくり軍の力を強くする)
  • 相対貿易を止め、官の交易となせ(貿易は幕府が統括する)

 

後に坂本龍馬がまとめた『船中八策』や、由利公生の『五箇条の御誓文』などに大きな影響を与えたというのも頷ける内容になっています。

 

目紛しいほど様々な出会いがあった江戸滞在でしたが、年も押し迫った12月19日、小楠を大きな事件が襲います。

 

熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸で、熊本藩士・都築四郎と酒を酌み交わしていた最中、3人の攘夷派の刺客(熊本藩足軽・黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門)から襲撃を受けます。

小楠は床の間にある刀を取ることができず、その場から逃れて福井藩邸まで戻り、予備の刀を持って平之助の別邸まで戻りましたが、既に刺客はその場を去っていて、吉田平之助・都築四郎ともに負傷していました(吉田は後に死亡します)。

 

この事件後、文久3(1863)年8月まで福井に滞在しますが、熊本藩では、事件の際に友人を残して逃げた行動が武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)だと非難されます。
それに対して福井藩は、国家のために尽くしている小楠が襲われたのは、単に武士道を欠いた者と同一視するべきではない。
また、戦うために刀を取りに戻っただけで、逃げたのではないと小楠を擁護します。

 

その福井藩の説得もあって、同年12月16日、寛大な処置として切腹は免れましたが、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となってしまいます。

 

浪人になった小楠の下を勝海舟や坂本龍馬が訪れました。

 

慶応元(1865)年5月、龍馬と第二次長州征討の話題になった時、小楠が長州藩に非があるため征討は正当だと主張したために口論になり、これ以後、龍馬は小楠と会うことはありませんでした。

 

●『龍馬はん』

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。

横井小楠・非業の死→

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