亀山社中〜日本初のカンパニー

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薩長同盟と亀山社中

 

亀山社中のメンバーの多くは脱藩浪士でした。
トップの坂本龍馬も、ご存知のように土佐藩の脱藩浪士です。

 

このことは語られ過ぎていて案外スルーされがちなのですが、亀山社中がスゴいのは、実はソコなんです。…ってドコかっていうと、脱藩した人たちが通る道と、かなり違うところへ進んで行ったところなんです。

 

以前に脱藩についてお話しましたが、武士が脱藩するのは、多くの場合、経済的か、政治的な理由でした。
おそらく龍馬のもとに集まった浪士たちも、そのいずれかだと思います。

 

そして、そんな浪士たちが辿る道は、ツテを頼って他の藩の世話になるか、武士を辞め一般人を装うか、のいずれかしか道はないと、それまでは考えられていました。

 

おそらく坂本龍馬自身も最初はそう考えて活動していたように思います。

 

そのつもりで神戸海軍操練所に身を置いたのでしょうし、そこで技術を身につけて諸藩に雇われる『職業軍人』みたいなものになってくつもりだったんじゃないかと思います。
以前お話した土方歳三が副隊長をやっていた『新撰組』は、その典型例かもしれません。)

 

そして薩摩藩の出資を受けて亀山社中を始めた時も、龍馬はその流れに沿った活動をするつもりだったように感じます。

 

それがどんどん変わっていって、より独立性の強い商社をやっていくようになるというのが、いかにも龍馬っぽいですよね。

 

そして、その流れがあったからこそ薩長同盟が結ばれ、維新までの流れができたんです。

 

 

慶応2(1866)年1月21日、薩摩藩・小松帯刀邸で、坂本龍馬、他2名が立会いのもと、薩摩藩と長州藩の間で政治的、軍事的同盟が締結されます。

 

だけど、ここまでの道のりはけっして簡単なものではありませんでした。

 

文久3(1863)年8月18日に起きた『八月十八日の政変』を経て、翌年7月の『禁門の変』に至って、薩長両藩の関係は修復不可能な状態になっていました。

 

その冷え切った関係の修復を図ろうと、元治元(1864)年12月11日、福岡藩士・月形洗蔵の尽力で、薩摩藩・西郷隆盛と長州藩・高杉晋作が、馬関(下関市)の料亭・対帆楼で会談を行います。

 

会談の内容がどのようなものであったか、またこの会談で何か成果を上げることができたのかどうかは分かりませんが、薩摩・長州の両藩が和解の道を探っていたのは確かでした。

 

しかしこの活動も、慶応元(1865)年『乙丑の獄』で仲介人の月形洗蔵を含む福岡藩士21名が死罪(洗蔵は斬首)となることによって頓挫してしまいます。

 

そこで、同年5月、坂本龍馬は、朝敵になったために武器などの取引ができなくなった長州藩に薩摩藩名義で軍艦や武器を購入し、兵糧米が不足していた薩摩藩に長州藩が米を提供するという和解案を長州藩に提案します。

 

この提案を長州藩の桂小五郎が受け入れたので、同年6月29日、京都薩摩藩邸で西郷隆盛の了承をもらい、グラバーから、ミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁を9万2千4百両で亀山社中が買い付け、薩摩帆船で長州藩へと送り届けます。

 

こういう出来事などから、口さがない人たちが「奴らはただの武器商人だ。」と言うのですが、それは「木を見て森を見ない」という喩えがピッタリなモノの見方のように感じます。

 

脱藩浪士が団体を作って、藩を跨いで商いをやるという発想自体がすでに突き抜けていますし、この具体的な行動によって仲の悪い藩同士を結びつけるとか、本来、商社がやる必要のないことなので、「ただの武器商人」で済ませてしまうのはちょっと残念に思うのです。

 

この「商い」と「政(まつりごと)」を両立させた亀山社中の活動が、翌年の薩長同盟締結への流れを作るのですが、そう簡単に両藩が折れるワケではありませんでした。

 

元々仲が良かったわけでもなく、政治に対する基本的な考え方がまったく違う両藩が、そこに至るまでにはまだまだ二転三転します。

 

そこでもまた、坂本龍馬は運命に吸い寄せられるように、決裂寸前の両藩を結びつけるところに身を置いてしまいます。(この話は長くなるので、またの機会にお話します。)

 

龍馬が土佐藩を脱藩した時、土佐勤王党を率いていた武市半平太は、龍馬のことを「土佐一国にはあだたぬ奴」と言いました。

その半平太が龍馬のことを獄中で、

 

「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名に恥じず」

 

と話します。

 

慶応元(1865)年5月11日。

 

薩長の仲を取り持とうと動いた福岡藩士・月形洗蔵と同様に、武市半平太も志半ばで藩の力によって命を絶たれます。

 

忠義を尽くした土佐藩から切腹を命じられ、37年の生涯を終えた武市半平太

 

彼が見つめ、期待した、その「龍」が、藩の束縛から逃れ、みんなが自由に飛び回るために作った最初のプラットホームが亀山社中だったのです。

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』

 

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む

 

 

 

 

 

 

 

 

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