陸奥宗光〜天満屋事件
坂本龍馬暗殺の時、在京していた宗光は、すぐに近江屋へ駆けつけますが、龍馬はすでに絶命していました。
その時、陸奥宗光は復讐を誓いました。
当時、実行犯は新撰組と思われていましたが、宗光は「いろは丸沈没事件」の恨みで紀州藩士・三浦休太郎らがやったに違いないと主張します。
「いろは丸沈没事件」とは、慶応3(1867)年4月23日、海援隊の商船「いろは丸」と紀州藩所有の大型蒸気船「明光丸」とが瀬戸内海で衝突し、沈没した「いろは丸」の損害賠償の終結までの一連の流れを指します。
その内容についてはまたの機会にお話しますが、この交渉のよって紀州藩は賠償金8万3526両198文(現在の価値に換算すると約25億円から約42億円に当たるそうです。)を支払う事で決着します。
55万石を誇る紀州藩が海援隊などという小さな商社に、ことごとく守勢の交渉を強いられ、法外な交渉金を払わされることになった腹いせに、その時、紀州藩の交渉人代表だった三浦休太郎が新撰組を使って坂本龍馬を暗殺したに違いない、と陸奥宗光は考えたのでした。
陸奥宗光らが立てていた三浦休太郎殺害計画を察した紀州藩は、会津藩を通じて新撰組に頼み、新選組きっての剣の使い手、斎藤一と大石鍬次郎を始めとする7名で三浦休太郎の護衛をすることになります。
そして新撰組は、何かあった時に隊士がすぐに駆けつけられるように、以前に新撰組が屯所にしていた西本願寺の近くの天満屋を休太郎の宿泊先にしました。
慶応3(1868)年12月7日(1月1日)、その天満屋の2階で休太郎と新撰組の隊士たちが酒宴を行っていたところを、陸奥宗光・沢村惣之丞ら海援隊・陸援隊士が襲撃します。
最初に斬りかかったのは中井庄五郎でした。
庄五郎は伏見・寺田屋で龍馬と懇意になった十津川郷士です。
三浦休太郎の前に「三浦氏はそこ許か」と確認すると、即座に刀を抜きました。
休太郎は咄嗟にかわしたために頬に傷を受けただけで済み、斬りかかった庄五郎は近くにいた斎藤一に斬られてしまいます。
その後、海援隊・陸援隊士がなだれ込みますが、灯りを消され暗闇の中の戦いになりました。
その中で「三浦(休太郎)をとった!」という声が響いたので、陸奥たち海援隊・陸援隊士は即座に引き上げました。
しかし、これは機転を利かせた新撰組の声だったのです。
激しい戦闘の末に、新撰組は宮川信吉、船津釜太郎が死亡。
斎藤一、中村小二郎、梅戸勝之進ら4名が負傷。
海援隊・陸援隊側は中井庄三郎が亡くなりました。
この時代の無益な報復行為を繰り返す殺傷事件を調べていると、いつも虚しい気持ちになります。
新しい時代の眩しい光が生み出す、深くどす黒い闇の中にはまると、人は時に狂気を孕んでしまうものなのかもしれません。
●『龍馬はん』 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。 その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。 |